発信しないと存在しない世界で、あえて「余白」を取り入れる鍛錬
- ymss0429
- 5月17日
- 読了時間: 3分
最近、あるタレントさんが配信番組の中で
「今の世の中、SNSなどで表現をやっていないと、存在していないことになるのが嫌だ」
と語っていたのを聞いて、深く共感しました。
「発信すること」「言語化すること」が世界のスタンダードになりつつある現代。確かに、言葉にして伝えなければ分からないことはたくさんあります。
しかし一方で、日本の文化には昔から「言葉に出来なくても分かること」や、「言葉にした途端に陳腐になってしまう感覚」を大切にする良さがありました。
私自身、何かの出来事に対して「どう受け止め、どう感じたか」を自分の中で深く咀嚼し、言葉にしてインプットする(内省する)気質があります。
これは豊かである反面、一つひとつに時間がかかり、次から次へと情報が押し寄せる現代のスピードには、正直すごく疲れてしまうことがあります。
若い世代の子たちが、ポンポンと次へ行き、行動を切り替えていくのを見て「すごいな、大変じゃないのかな」と驚くこともありますが、彼らはただ自分の視野と思考の範囲内で、息をするように「普通に」こなしているだけなのだろうなとも思います。
そんな「誰もが発信し、完成された正解を出さなければいけない時代」に、面白いエピソードを耳にしました。
「路上喫煙をしている友人に付き合ってその場に留まることは、世間のルール(正解)からすれば間違いかもしれない。でも、友人との関係性においては、それが正解になることがある」という話です。
まさにその通りだと思いました。 今の世の中は、常に白黒はっきりとした「世間の正解」ばかりが求められます。
でも人間関係や心の中には、正解とは言えないけれど大切な「グレーな部分」や、完成品ではない未熟な部分がたくさんあるはずです。
私がSNSに対して少し距離を置きたくなる理由の一つに、「無力感」があります。
自分が失敗したことや、生々しく傷ついたこと。それをSNSで発信してしまえば、結局は「いいね」をもらうためのエンタメや、自分を表現する「プラス材料(コンテンツ)の一部」として回収され、消費されてしまう。
そんなシステムに飲み込まれることに、虚無感を感じてしまうのです。
すべてを分かりやすい言葉にして、世間の正解に合わせ、プラスの材料として発信しなくてもいい。
言葉にしない余白や、世間的には褒められないけれど自分にとっては大切な時間。
そういったものを、誰の目にも触れないところで、静かに守り抜く強さがあってもいいのではないでしょうか。
……と、ここまで書いておいてなんですが、結局のところ、私はこうして自分の内面でぐるぐると考えたことを、このブログやお便りの「ネタ」としてしっかり利用してしまっています(笑)。墓場まで持っていこうと思う感情すら、どこかで言葉にして誰かに伝えたくなってしまうのが、人間の厄介で面白いところなのかもしれません。
厄介と言えば、休息したい時にも、良い方法を調べて、いつのまにか「休む」ことでさえ日常にさらにプラスしてしまっていることもありますよね。
ということで、私は今、本意ではありませんが、余白を取り入れる鍛錬中です。
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